六甲伯医会報告

7月1日に六甲高校出身の医師の懇親会六甲伯医会に参加しました。古泉校長の挨拶に始まり、イタリアンレストランの「キズナ」(32期の井尻先生お勧めのお店です)で美味しいイタリアンとワインを頂きながら皆で楽しい時間を過ごさせて頂きました。古泉先生の話をお聞きするに、現在の六甲高校は私がいた頃よりもずっと進学校として名を轟かせているようで卒業生として誇らしく思いました。

今回の伯医会には初めて参加される先生がたも多くいらっしゃいましたが、同じ学び舎で学んだ共通の価値観を共有出来ているからか、元々面識のない先生でもすぐに打ち解けて話を出来るのが伯医会ならではだと思いました。意外なところでお付き合いのある先生がいらっしゃったりして世間の狭さと人と人の繋がりの面白さを改めて感じました。

ひとしきりディナーを食べた後に、若い先生がたから順に自己紹介と近況報告、母校への思いを語って頂きました。六甲出身のドクターという共通のバックグラウンドはあるものの、それぞれ個々人の性格や六甲以外で置かれた環境などが当然違うため、六甲出身という要素と個々人の要素の線引きが難しいなと(もちろんその必要性も乏しいのでしょうが)思いましたが、強いて最大公約数的な共通項を挙げるとすれば、内科系よりは外科系(特に整形外科)の先生がたが多い、反骨精神豊かな先生が多い、患者さん思いのいい臨床医であることが容易に察せられる、といったところでしょうか。

最後に最高齢の12期の西山章次先生が「今日みんなの話を聞いていて六甲精神という言葉を多く聞いた。今まであまり意識せずにいたので新鮮だった。我が母校はそういうものなのかと改めて思った。」と淡々とおっしゃられているのをお聞きして、その飾りのない真摯な言葉に感銘を受けました。西山先生の時代にはひょっとするとまだ言葉としての六甲精神というものはそれ程なかったのかもしれないですが、六甲精神の源である初代校長の武宮隼人先生の薫陶を我々よりもずっと濃厚に受けておられるのは想像に難くないだけに逆に凄みを感じました。

西山先生のお話をお聞きして、司馬遼太郎の「峠」の一説を思い出しました。

「幕末期に完成した武士という人間像は、日本人が生み出した、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて、人間の芸術品とまでいえるように思える。しかもこの種の人間は、個人的物欲を肯定する戦国期や、あるいは西洋にはうまれなかった。サムライという日本語が幕末からいまなお世界語でありつづけているというのは、かれらが両刀を帯びてチャンバラをするからではなく、類型のない美的人間ということで世界がめずらしがったのであろう。また明治後のカッコワルイ日本人が、ときに自分のカッコワルサに自己嫌悪をもつとき、かつての同じ日本人がサムライというものをうみだしたことを思い直して、かろうじて自信を回復しようとするのもそれだろう」

私自身も「六甲精神」というロマンティシズム溢れる言葉にただ甘えるのではなく、己自身がより輝くことで六甲の教育とはこういうものだと察せられるくらいにならないといけないと刺激を受けました。

今回、大歳先生の幹事辞任に伴い若輩ながら幹事職を拝命しました。まだ何をしてよいやら分かりませんが、自分の周りの六甲出身のドクターには参加するよう声を地道にかけていっていこうと思います。在宅医療、緩和医療の尊敬する先輩でもあり仲間でもある、関本クリニックの関本剛先生(52期)と同時に就任させて頂くこととなったので、若手二人で今後力を合わせて新しい風を吹き込んでいきたいと思っております。私の同級生の山田ルイ53世のファンが多くいらっしゃったのでいつかゲストで呼べたらいいなと考えております。

24期の西林保朗先生から伯医会開催当初のお話をお聞きしました。六甲の卒業生で同じ分野に進んでいる人間が集って忌憚なく語り合える貴重な場を作って頂き改めて感謝の念を感じました。先人の先生がたに作って頂いた貴重な場を今後もいい形で後輩の先生がたに引き継いでいけるように長期的な視点で見て考えていきたいと思っております。まだまだ若輩者の身でございますが、今後とも何卒よろしくお願い申し上げます。

思い付くままの駄文雑文、失礼しました。最後まで読んで頂いた方々の御多幸御健勝をお祈りしつつ末尾としたいと思います。

岩本診療所 こうべ往診クリニック 院長 岩本 善嵩