24期は、戦後の団塊の世代として、三倍の競争の中、160名が入学しました。その後、中学・高校と6年を経過する中、過年度の入学者や退学をした者があり、結果として146名が卒業しました。卒後50年と云う一連の社会人としての時間を概ね経過し、その間、7名の方が逝去されました。卒後50年を祝し、今回は、出来るだけ関東・関西ともに在住の各位他全員に声掛けし、今回の記念行事を開催しようとの運びとなりました。案としては、関東・関西の中間点での開催など、多々意見もありましたが、結果として、24期の同期会の世話を長きにしてくれている大澤裕信君のお世話のもと、参加費を在住地域にて応分の差異を設けるなどの調整を図り、母校の地にての開催が実現しました。
上記の様に、まず、懐かしくもきつい坂道の上での学院の地に集合し、現在の新たな学舎を参加者全員で見学しました。現在の伯友会の会長で且つ24期で元母校の学院の教員を長く務めておられた石光一郎君や、伯友会副会長の横山幹夫君のお世話によって、皆で母校見学ができることになりました。我々のために、現行の古泉校長先生、畑堀教頭先生、そして武田事務長が、ご多忙な中、見学の案内をお世話下さいました。特に、古泉校長先生には、ご挨拶と上智学院となった経緯や、新たな校章の紹介とその決定の過程を中心にお話をいただきました。
やはり、主学舎5階の図書室からの神戸の景色に守られて、現役の生徒に対しても、すばらしい学習の環境をもたらしていることを改めて堪能することが出来ました。
また、一部、当時我々が使っていた、イエズス会のメルシュ修道士作の机と椅子の残っているものだけだが、現在も大切に使って後輩達の勉学に使用されていることには、感無量なところもありました。
その後、それぞれ、電車・タクシーなどで、そぞろ主宴会場の「神戸外国倶楽部」へ移動しました。記念行事では、総合司会を横山幹夫君が、また、アシストとして、武田義信君、石原良樹君と今回の全体世話役の大澤裕信君のご尽力により会が進められました。写真担当として伊藤茂生君が、会計は、鳥居香次君が担当してくれました。また、卒後50年経過し初めて会う同期も石原存君、小森純夫君と平岡和夫君と3名も参加してくれて、今回の同期会の企
画がすばらしいものであることを示しています。
宴は、石光一郎君の挨拶のあと、同期で、早くも逝去された7名のために黙祷をおこないました。次に、お世話になった先生方の写真が映写され、50年前のことだけに多く亡くなられておられるので、当時を偲ぶ会になりました。続いて、映写に詳しい安井善雄君が当時の体育祭などの8mmフィルムを再編集し準備してくれた映像を視ながら、思いを馳せました。特に、長くの病床を押して参加してくれた(財)香里能楽堂の辰巳孝門君の当時の体操部での
演技を鑑賞し、ご本人の今の痛ましい姿を見ながら、改めてその辛さを思い知るところとなりました。
以降、卒業アルバムにある修学旅行時のグループごとの写真を順番に映写し、映写されていて今回出席の本人ごとに舞台に上がり近況報告をおこなうという要領で、宴が進められました。同時に不参加の各位からの近況の返事や、相互に近況を知る範囲で、お互いに紹介することで事が進行しました。中には、該当者の秘密事項を「ばら」されて、却ってそれが受けて益々宴がにぎやかと化す場面もありました。ただ、司会から、2分半/人ぐらいの持ち時間でとの忠告のうちに進められたのですが、全くその予定時間どうりには進まず、かなり、時間オーバーしました。卒後50周年とのことでもあり、無理もないところでした。
大幅時間超過しつつも9時半ごろ皆の近況報告を終え、校歌斉唱し、皆で舞台に上がり、出席者全員の記念写真を撮りました。遅れのため、二次会会場から、再三お待ちの催促があるなか、移動開始直前に、辰巳孝門君が当該宴を祝う唄を寝たままのベッド台車のなかから、涛々と聴かせてくれました。彼が、病床のうちにも、これだけの回復の中におられることを皆で感無量と思いつつ、二次会会場に移動しました。
二次会会場の「北野オールデイズ」には、出席者のほとんどが参加しました。二次会会場のお店は、ドイツ料理のお店であり、ビール、ワイン、ハイボール他とソーセージやポテトで和気あいあいの中過ごし皆感動のうちに、中心的に世話役を引き受けてくれている大澤裕信君に感謝しつつお開きとなりました。
(塚本次郎 記)