アンコールワット・ベトナム旅行のトラブル&珍事
今年のむとせ会有志による海外旅行はカンボジア/アンコールワットとベトナムでした。ちょっとしたエピソードをご紹介します。
勝手な通訳にご注意!
ホーチミンの代表的な有名ホテルであるホテル・マジェスティック最上階の「M’s Bar」での出来事。
前日に二人が下見をし、旅を振り返る旅行最終日の夜にふさわしい眺めのよい席を予約しておいた。
席に着くと巧みな日本語で注文を捌いてくれ、ウィスキーをワンショットずつ注文して気持ち良く呑んでいた。ところが乾季には珍しく突然雨が落ちてきたので屋内の席に移動することに。我々と一緒に注文していないウィスキーのボトルもついてきた。ボトルがテーブルにあるのを不審に思い注文を捌いた男を呼ぶと、男は「二杯三杯と飲むとボトルの方が安いのでボトルを注文した」と言う。男はボーイと同じような黒い服装だが制服ではない。飲み助は二杯三杯と勝手に注いでボトルの半量ほどを空けていた。しかたなくボトルの半額を払うつもりで、手書きの勘定書きを細かくチェックすると、ボトルの半額より高めのボトル料金に飲み代とほぼ同額のミュージックチャージ料が書かれていた。すったもんだのあげくボトルの料金を半額に訂正させ、支払おうとすると現金で支払ってくれと言い始めた。私たちの旅行は帰国後の精算のためにクレジットカードを使用することが多い。ホテルのレジへ行き、ホテルの請求書をみるとミュージックチャージ料は記載されてない。男はミュージックチャージ料と称する金額を横取りする目的でホテルのボーイとグルになり手書きの勘定書きを示し、現金での支払いを要求したのだ。男は『儲け損なった』というような顔をしてトボトボと帰っていった。
賢明な六甲伯友会の諸兄には余計なお世話かも知れないが、海外旅行の時は勘定書きを必ずチェックすることが必要だ。今回のように英語で書かれていれば細かくチェックできるが、現地語で書かれた明細は読めない。しかし品数を数えるだけでも効果はある。そして巧みな日本語で近づいてくる人物(日本人を含む)には充分ご注意を。
支払は簡潔に
再びお金に係わるエピソード。
カンボジアの最終日、ガイドへの心づけのつもりで彼お薦めの土産を買った。それぞれが自分の支払額をガイドに手渡せばよかったのだが、揺れるバスの中なので後方から順繰りにお金を送っていった。しかし合計金額がたりない。酷暑の中で観光したあとの疲れた頭では勘違いも起こる。未だに原因は不明のまま。
人使いの荒いベトナム
ベトナムへ初めて訪れたときにサービス精神のない国だとの印象があった。十数年ぶりの訪問でもその印象はあまり変わっていない。
例えば普通のレストランではテーブルサービスのとき客のあいだに身体を斜めにして入ることをせず後の方から客に料理を渡したり、空いた器を客にとらせたりすることを平然とするのだ。気のよい連中は郷に入っては郷に従えと腹を立てることもない。もちろんホテルや一流のレストランでは洗練されたサービスを受けることができるが、十数年前にはそれもなかったので進歩していることは間違いない。
愛犬家のみなさまへ
今年でいよいよ51 歳、後期アラフィフ突入です。
LA伯友会の諸先輩からすれば「若いなぁ」になるのかもしれませんが、今の私が「若い」と言われそうな場所は、ついにここだけになってしまいました。
50歳ってもっとなんというかしっかりしたものだと思っていたのですが、中々現実は・・・
多分41期生の私が卒業した頃、佃先生が今の私ぐらいだったと思いますが、今思い返すとバケモノですね。
実は、ここ数年、LAで保護犬団体のボランティアをやらせてもらっています。
犬の保護活動を少しかじって感じるのですが、犬を取り巻く世界も、あの頃と今では大きく変わってきたようです。
私が初めて飼った犬は、友達の家で生まれた仔犬でした。
その友達の犬が死んだあと、ウチで生まれた仔犬をあげたりもしました。
その頃は、ウチの周りでは大体そんな感じだったと思います。。
お金持ちの家が、血統書付きの犬を飼っていたりということはあったのかもしれませんが、犬をお金を出して買うって言うことは、そのころ私が住んでいた奈良の田舎では聞いたことがなかった気がします。
飼うのはもちろん外飼い。
犬が家の中に入るなんて、考えられないというか、考えたこともありませんでした。
今は、どちらかというと室内飼いが主流になってきているように思います。
と言っても、日本を離れて27年、今の日本がどういう状況かはわかりませんが、ここLAでは外飼いが目立つのは、どちらかというとちょっと危ない地域になります。
時代や環境が変わることで、犬の状況も変わってきたということですね。
すごくおおざっぱに言ってしまうと、人間の生活と犬の生活が昔よりも大きく重なり合っているように思います。
この環境の変化の中で、犬の問題も随分と増えてきました。
無駄吠え、噛みつき等ももちろんそうですが、多分一番の問題は増やしすぎ、ということじゃないかと思います。
アメリカのペット保護団体最大手であるASPCAの統計によると、現在アメリカで飼われている犬は推定で7~8千万頭。これはちょっとすごい数字で、お隣の国、韓国の人口が約5000万人ですから、それをはるかに上回る数の犬がアメリカにいることになります。
その中で、シェルターと呼ばれる捨て犬の収容施設に入れられる犬が毎年約400万頭。実に神戸市の人口の2倍を大きく超える犬が毎年収容されています。そしてそのうちの約140万頭が運よく新しい家族を見つけ、約120万頭が毎年殺処分ということになっています。
シェルターや保健所というのは、もともと殺処分をする施設ではなく、放浪犬など飼い主からはぐれた動物の保護施設です。
それでもその収容能力には勿論限界があり、それを超える時、仕方なく殺処分という方法がとられます。アメリカの場合、その犬が放浪犬だった場合、つまり飼い主が分からない場合は飼い主からの連絡を待つということで比較的長く保護されますが、飼い主が直接持ってきた場合、殺処分のタイミングはずっと早くなり、そのシェルターの収容状態によっては1週間前後がリミットになってしまう場合もあります。
日本の現状でいうと、殺処分の数は大きく減っています。
私が初めて犬を飼った昭和40年代後半には年間1000万頭を超える犬が殺処分されてたそうです。
あの頃は、確かに野良犬をしょっちゅう見ていた気がします。だからこの頃の殺処分は野良が中心だったのでしょう。
今はどうかというと、環境省の発表によれば、平成26年度の統計で2万頭強だということです。
激減と言っていいと思いますが、内容を見ると今は飼い主の持ち込みが大半を占めているそうです。
日本の場合、短ければ保健所で生きていられるのは2泊3日
持ち込まれた日を1日と数えるところと、次の朝からカウントする所があるようですが、これがタイムリミットです新しい飼い主が見つからなければ、それで終わりです。
もちろん、保健所に余裕がある場合はもっと長く滞在できることもあります。
これを何とかしようとしているのが、民間の保護団体ということです。
行政も頑張ってくださっていますが、なんといっても税金ですし、この社会は犬好きばかりではありません。全員が犬好きで、みんなが犬を助けたいというのなら税金も沢山使えるのでしょうが、もちろんそんなことはありません。だから、犬好きが起こす犬の問題は、犬好きが何とかするしかないという当たり前の結論になります。なんとか、救える命は救ってあげたいと。
ただ、前述の通り、数が数ですから、全部という訳にはいきません。
また、安易に「殺処分0」を掲げると、また新たに問題が起きたりもします。
というのは、以前「殺処分0」を掲げた自治体があったのですが、近隣からその自治体に捨て犬が殺到するという事態になりました。みんな捨てはするけど、殺されるのは夢見が悪いんですね。
また、殺されないという前提が出来てしまうと、捨てるということのハードルがぐんと下がります。
気に入らなければ捨てればいい、ということにつながってしまうんですね。
実際、ウチの団体では、持ち込みは原則お断りしています。
自分でシェルターに持って行ってください、あなたのせいでこの犬が殺されるかもしれないという経験をしてください、ということです。
稀に引き受ける時もありますが、その時には犬を捨てる飼い主からお金をいただきます。
何もなしで引き受けて、あそこに持っていけば大丈夫なんて噂がたてば、うちなんかあっという間にパンクするからです。
では、殺処分0を目指さないなら何を目指すのか、というと、「捨てる飼い主、捨てられる犬0」を目指しています。
殺処分0で捨て犬の受け皿を大きくすると、結局犬を捨てるという蛇口が大きく開いてしまうことにつながるので、その蛇口を少しでも閉めることが先決だということです。
お手伝いするようになって3年ほどたちますが、その間に数百頭の犬が新しい家族に迎えられました。
そのうちで、私が知る限りで戻された犬(お試し期間を除く)はわずか数頭です。
私自身がやっていることとしては、最初は掃除や散歩の手伝いだけでしたが、ほどなくして「預かり」も始めました。
「預かり」は、飼うのではなく保護犬のままで自宅でその世話をすることです。保護犬の施設では様々なトレーニングが施されますが、そこでできない「実際の家庭」での環境に慣れさせることが目的です。といっても、実感としては普通に自分の犬のように可愛がって叱って遊んで生活するだけです。
その数が現在までで27頭。最近の犬は長生きするようになって、小型犬なら15年~20年は普通に生きます。それを27頭ということは、一頭ずつ飼っていれば400年ぐらいかかる話ですが、預かりならそれが3年ほどで経験できてしまいます。色んな種類、いろんな性格の犬と一緒に暮らすというのは、本当に面白いですね。一緒に暮らしていた犬がいなくなるのは寂しくないですか?とよく聞かれたりしますが、これは嬉しくて寂しくて嬉しい不思議な感覚です。教師が卒業生を送り出すのに似ているかもしれません。
今、日本でも多くの保護団体が、死に直面している犬をなんとか一頭でも多く救ってやろうと頑張っています。3万頭に近い保健所収容の犬を全部救うのは不可能に思えますが、それでもできる範囲で頑張っています。でも、もうちょっと輪が広がれば、決して不可能なことではないと思います。
伯友会の「犬好き」の皆さん、すでに犬を飼ってらっしゃる方、これから飼おうと思っていらっしゃる方、そのチョイスに是非「保護犬」を加えてやってください。
飼うっていう決心がつかない方、転勤が多くて犬を飼うのをためらっている方、海外赴任で犬を飼えないと思ってらっしゃる方、「預かり」って手があります。是非お近くの保護団体にお問い合わせください。
今日本で犬を飼っている世帯の数は約800万。このうちのわずか0.4%のお家が保護犬を迎え入れてくれることが出来れば、日本中の保健所が空っぽになります。
こうしてみると、決して不可能ではないと思うんですよね。
(41期:牧野明久)
六甲伯友会の思い出
六甲伯友会8期生(昭和26年3月卒業)の山田康之です。会員名簿の24ページに私の名前が出ております。
当時は武宮隼人校長先生で増田伊太郎先生などおられ戦時中ならびに敗戦後の動乱期に旧制六甲中学に入学し、新制の六甲高等学校を卒業いたしました。日本自身が本当に混乱の中、私は六甲学院にて良い精神教育と勉学に勤しむことが出来た事は幸いでありました。
私の父は山田祥三と申しまして、当時旧制六甲中学校の図画の教師をいたしておりました。六甲伯友会会員名簿(2016年度版)13ページの逝去者の中に出ております。私の父は日本画の教師でして、上沼俊次先生が洋画の教師でした。その頃、父が描いた葡萄棚の絵が毎日新聞社賞を得まして六甲高等学校に寄付した記憶があります。
私は六甲高等学校卒業後、京都大学農学部に進みその後、ミシガン州立大学にフルブライト研究生として渡米、帰国後京大教授を経て、国立奈良先端科学技術大学の学長で定年に至りました。その後、社会福祉のための仕事をいたしております。
研究の方は良き共同研究者に恵まれ日本学士院賞を頂き、さらに米国立科学アカデミーとスエーデン王立科学協会の外国人会員にも選ばれ、平成24年文化勲章受章者に選ばれました。(奈良先端科学技術大学院大学山田康之ホームページ参照)これらは全て六甲の基礎教育と負けじ魂の結果として、感謝しております。京大教授の時に武宮校長先生から在校生に話をしてくださいということで、参ったことなど夢のように思い出されます。
現在は85歳になりあまり遠方に出歩くことも困難となりましたが、六甲学院の益々の発展を遠くから見守り、祈っております。高齢になり厳しく育てられた六甲精神を今も思い出しつつ、懐かしい六甲高等学校について書かせていただきました。
フリン先生を偲ぶ会 報告
2017年2月12日(日)に四谷イグナチオ教会で行ったフリン先生を偲ぶ会(8周年)の報告をします。
昨年、一昨年と同様、地下のクリプタで35期の英神父司式追悼ミサに与り、お墓参りをしました。その後、祭壇のフリン先生の写真を囲んで全員写真を撮りました。今年は、福岡の泰星学園(現上智福岡)の教え子家族も一緒にミサに与りました。
その後、中華料理店(京華園)で懇親会をしました。今年は少し趣向を変えて、各期なるべくバラバラに座って交流をし、途中各期1~2名にフリン先生の思い出話をしてもらいました。ゴルフ観戦やオートバイの話など、フリン先生の清貧のイメージとは少し違った一面が紹介されました。最後に校歌を歌って解散しました。
懇親会の参加者は合計25名でした。(ミサのみ参加は3名)
17期 1名
23期 10名(懇親会9名)
29期 4名
35期 13名(懇親会11名)
文責:23期 大谷 秀二
2017年7月22日に実施しました第3回フリン先生を偲ぶ会(関西)について報告します。まず、恒例となったフリン先生記念館などの掃除を行いました。
今回は、英会話の教材であったオープンリールのテープを新たに展示に追加しました。引き続いて、古泉校長による新校舎の見学会を実施しました。
校長からでないと聞けない解説をして頂きました。続いて、東京からお招きした井上潔先生により、フリン先生を偲ぶ御ミサを執り行っていただきました。
最後は、三宮に移動し、居酒屋「きむら猫」にて、フリン先生の思い出話しに花を咲かせました。懇親会には、井上先生、古泉校長をはじめ、23期1名、35期4名、41期2名、29期8名の合計17名の方々が参加しました。
来年は、もう少し涼しい時期に開催するようにしますので、是非とも、ご参加をお願いします。
29期 幹事一同(文責:松本 宏)
フリン先生を偲ぶ会(東京、神戸)実施報告
2016年2月7日(日)、四谷イグナチオ教会でフリン先生7周年の会を行いました。昨年と同様、地下のクリプタで35期の英神父司式追悼ミサに与り、お墓参りをしました。その後、祭壇のフリン先生の写真を囲んで全員写真を撮りました。ミサ中、写真の横にガリ版刷り初代プログレス(17期小島さんご提供)と、製本されたプログレス(35期ご提供)を置きました。(これらのプログレスは、六甲学院内のフリン先生記念館に展示されます)29期渡邉さんのご母堂と妹さん(聖心会シスター)も一緒にミサに与りました。その後、中華料理店(京華園)で懇親会をしました。関西から参加された29期藤井則雄さん、松本宏さんより、フリン先生の写真や肖像画の抽選や展示室の話などをしていただき、大変盛り上がりました。懇親会の参加者は合計21名(23期 5名、29期 5名、35期 11名)でした。
2016年6月25日(土)、第2回の関西でのフリン先生を偲ぶ会を母校の別館(フリン先生記念館、お御堂)、及び、三宮のしゃぶ禅(懇親会)にて行いました。まず、雨漏りしていたフリン先生記念館の掃除から始まり、床拭き、トイレ掃除、新たに使用許可がおりたバックヤードの掃除、新たに設置したショーケースへのプログレス全シリーズの展示までを実施しました。次いで、お御堂にて東京からおいでいただいた井上潔神父様にフリン先生を偲ぶごミサをあげていただきました。また、しゃぶ禅での懇親会の参加者は16名(井上先生、17期 2名、23期 2名、29期 8名、41期 3名)でした。 懇親会では、各人よりフリン先生の思い出やエピソードを語って頂きました。井上先生には上野にある教会での活動について、お話しを頂きました。
来年も、2月初旬に東京で、6月下旬に神戸で開催します。各期の世話役の皆様には、引き続き、お世話になります。よろしくお願いします。
文責:23期 大谷 秀二(東京)、29期 松本 宏(神戸)
オーストラリア紀行-メルボルン編
1999年12月31日の夜行便でシドニーに飛び立ったのがオーストラリア行きの初めでした。この日はミレニアムを迎える時で世界中のコンピューターに異変が起こるかも知れないとのうわさが広まり飛行機利用者が激減し、そのおかげで我が便もガラガラでした。そして予定通りの到着でコンピューターへの信頼性が高まった感じを受けました。
さて、この時はシドニーに数日の滞在後、レンタカーでキャンベラ経由でメルボルンへ行き1週間ほど滞在しました。ということで今回はメルボルンについてお話しましょう。
この町はなんと言っても緑豊かな町で、ガーデンシティと呼ばれています。メルボルン市内の80パーセントを緑地が占めており、大小450もの公園やガーデンが点在しています。どの公園も手入れが行き届いており行政が力を入れていることがわかります。しかし、緑豊かな公園でも日本の公園のように遊戯器具は殆どありません。それでも週末には多くの家族がバーベキューや昼寝を楽しんでいます。そして園内の電熱式のバーベキュースタンド(ストーブ)は無料で使えます。
そうそう、もうひとつ無料のものがあります。市内中心部を長方形型に巡回する市電(トラム)です。トラムは運転手のみで自由に乗り降りが出来、切符のチェックは車内の検札機のみです。故に無賃乗車もあり得ます。最新の情報では中心部を走るとラムすべてが2015年1月1日より無料になったということです。
市内は長年イギリスの統治下にあったためイギリス風の建物が多く、クラシックな落ち着いた雰囲気が漂っています。特に英国聖公会、カトリック教会の聖堂は圧倒的な威容を見せています。さらに大きな特徴として、人口の半分近くがオーストラリア国外で生まれたか国外で生まれた親を持ち、230以上の言語や方言が話されています。つまり移民多国籍の都市ですので人種差別がまったくありません。
この点でも世界で一番住みやすい街と言われる所以と言えるでしょう。
その住み易さの表れかも知れませんが服装です。服装の基本はTシャツ、ショートパンツにビーチサンダルの超軽装ですがレストラン、ホテルどころか教会のミサもOKです。少々寒い日が来ても明日は暖かくなるだろうからとセーターは着ません。ただし冬のメルボルンは南極からの風が吹きますのでかなり寒く、やむなくコートは着ます。
スポーツにおいては、全豪オープンテニス、F1レース、メルボルンカップ(競馬)の開催地で知られています。特にF1レースは市内のアルバートパーク内の湖の周回路で行われます。レース日以外はパブリックゴルフ場やピクニックやサイクリング公園で、全く違う目的で利用する感覚がオーストラリア的といえるのかも知れません。周回路は通常は一般の車道で、すぐ脇にはフェンスの無いゴルフ場のティーグラウンドがあります。フックやスライスボールは危険この上ありません。それでも平然とプレーするオーストラリア人、大らかさかも知れません。
メルボルンのもうひとつの顔は食の町、「食都」です。とにかく世界中の民族が暮らしているのですから世界中の食事が出来ます。イタリア、中国、ベトナム、インドレストランは多くどの店も美味しいです。特に各国の居留地にあるレストランでは本国以上と言われています。
最後に、メルボルンの年末カウントダウンの花火の豪華さです。1月1日0時にはダウンタウンの5,6箇所の高層ビルの屋上から一斉に花火が打ち上げられます。花火は地上から天に上がるものと思っていましたが、ここではビルの屋上から大砲のように真横に打ち出されます。 中心部の橋の上からは360度どこを仰いでも寸断の無い花火だらけです。とにかくすさまじい発射のため15分で玉は尽きてしまい、あっという間の天空ショウです。
ところで、最近の新婚旅行といえばハワイ、しかし10年以上前はオーストラリアのゴールドコーストでした。この変化の正確な理由はわかりませんが、たぶん為替レートと言葉のためでしょう。ワイキキの殆どのレストランには日本語のメニューがありますがオーストラリアでは和食店以外では見たことがありません。更に服飾のブランド店も少なく日本人好みではないのかもしれません。当然ハワイのほうが行きやすいということが言えます。
美食と安くておいしいワイン、緑の中でのんびり過ごす時間を楽しみたい人にとっては最高の町でしょう。
LA今昔日記-遠い国から近い国に-
日本からロスアンジェルスへの渡航は戦後船から飛行機になったが 、当初はエリューシャン列島を飛び石づたいに航行する、ローカル線の継続のような航路であった。
やがて1954年日本航空がダグラスDC-6型を導入、憧れのホノルル経由航路(羽田→ウェーク島→ホノルル→SF)をオープンした。しかしまだプロペラ機時代だったので、所要時間は31時間となんとも悠長なフライトとなった。それに神戸から羽田までの鉄路、SFからLAへの連絡空路を加えると、総計40時間を超えるまるで周遊の旅行であった。
この当時、総合商社に勤務する先輩がLAに赴任することになった。大阪駅まで見送りに馳せ参じると、既に駅頭には十数名の上司・同僚が彼を中心に円陣をつくり、代る代る激励の辞を述べておられた。その光景は戦時中戦地へ赴く軍人を見送ったのと全く同じであった。しかしこの40数時間の空の旅はエリートのコースで、手元不如意な官費留学生は”貨物と共に行きましょう”と貨物船に便乗し、20日がかりで米国へ運ばれて行った。神戸のメリケン波止場から出帆したので、紙テープを持ってお祭り騒ぎで見送りに行ったものだ。事程左様にLAは遠い国であった。
画期的なジェットエンジンが開発され、ボーイング社が1959年707型ジェット機を発表した。これが700シリーズの始まりで、現在は787型にまでなっている。707とは採用したのが707番目のデザインだったからというが、どうも製薬会社の命名法と同じような気がした。その後他社も負けじとジェット機を登場させたので、ついに世界はノンストップ・フライトの時代を迎えた。兼高かおるが「世界の旅」シリーズを始めたのはちょうどこの頃であった。神戸市生まれの彼女は女学校を卒業すると、戦後渡航の最も困難な時代に敢えてLA市立大学に留学している。彼女は旅シリーズで160か国を回ったが、やはり LAが懐かしかったのであろう早々に「ロスアンジェルス紀行」を放映した。
当時日本の主要な人物はこぞって米国の玄関口となったLAに立ち寄られた。天皇陛下も皇太子時代から複数回来駕されている。写真家の宮武東洋氏が殿下の肖像写真撮影を願い出たところ、3分以内という条件で許可が下りた。助手を任された息子は必死になって照明をセットし、いざ撮影という時に殿下の髪の毛がぴんと立っているのに気付いた。とっさに髪を手でおさえ無事時間内に撮影を完了した。息子はよくやったと褒められるとばかり思っていたら、父親から大目玉を食う。「貴人の頭に手をやるとは、不敬罪で打ち首だ」と叱られた。一世(いっせい)である父と二世(にせい)である息子との感覚の相違である。
ちなみにこの時代渡米した日本人エリートが一様に買ったお土産は、なんとデュポン社が発売した婦人用ナイロン靴下であった。どこのお宅でも奥さんか娘さんに「パパ買ってきてよ」とせがまれたのであろう。
近年日本からの留学生は減る一方、それに反して中国、韓国は増え続けている。若年時に言葉に適応する耳と舌が出来上がり、ひとたび完成すると逆戻りは出来ぬと専門家は言う。これではますます語学力で他国に水をあけられるばかりだ。願わくばお子さんの進学指導に際し、選択肢の一つとして米大学を加えて下さいますまいか。2014年度の世界大学ランキングが先日発表された。日本が誇る東大は23位と低位に甘んじ、いつもながら上位は米国が90%英国が10%を占めている。米国が世界に君臨して以来、授業が英語にあらずんば、大学ににあらずの感さえある。日本の有名大学卒より日本語・英語バイリングルの方が世界で重用されるのは確かだ。
欧州系にトライリングルが多いので、次に日本語を習ってはと水を向けると共通点がないのでと皆困った顔をする。日本が孤立せず世界の一員になるには、日本人自身がバイリングルになる以外方法がない。
日本は情報の処理・発信が遅くて拙(マズ)いので、いつも後手に回り諸外国の後塵を拝している。発信能力を高めるには政治、歴史、文化あらゆる分野にその素養のあるバイリングルを配置し、常にアンテナを張り巡らしておく必要がある。しかし彼らの数は少なく、必要数の十分の一にも達してないのが現状なので、今後政府の積極的な奨励対策を大いに期待して止まない。
本年3月関空よりLAへの直行便が復活した。往きは偏西風により9時間少しでLAに着く。昔神戸から東京へ夜行列車銀河で行ったのと同じ所要時間である。
五明 洋(10期)
フリン先生を偲ぶ会(東京、神戸)実施報告
2015年2月8日(日)、四谷イグナチオ教会でフリン先生6周年の会を行いました。今年は例年と違って、地下のクリプタで35期の英神父司式追悼ミサに与り、各期の自己紹介をしたあと、お墓参りをしました。
聖堂の前で全員写真を撮った後、近くの中華料理店(京華園)で懇親会をしました。懇親会の参加者は合計30名でした。17期 6名、23期 9名、29期 2名、35期 12名、41期 1名(41期から初めて参加)
2015年6月27日(土)、第1回の関西でのフリン先生を偲ぶ会を母校の別館(フリン先生遺品展示室、お御堂)、及び、三宮のしゃぶ禅(懇親会)にて行いました。
まず、フリン先生遺品展示室の掃除から始まり、お墓の掃除をするつもりで、落ち葉まで入り込んだ遺品展示室の掃除、床拭き、トイレ掃除まで行いました。次いで、お御堂にて東京からおいでいただいた井上潔神父様にフリン先生をしのぶごミサをあげていただきました。フリン先生の経歴や六甲での30年に及ぶ教師生活、上智福岡中学高等学校(泰星学園)に移られた経緯などをお話いただきました。
また、懇親会の参加者は20名でした。(井上先生、17期 3名、23期 1名、29期 12名、35期 1名、41期 2名)懇親会では、参加者よりフリン先生の思い出やエピソードを語って頂きました。想定外の話題が多数紹介され、期を越えた貴重な情報共有が出来ました。
来年も、2月初旬に東京で、6月下旬に神戸で開催します。各期の世話役の皆様(17期 福田信三様、35期 加門正之様、41期 藤本勝様)には、引き続き、お世話になります。よろしくお願いします。
文責:23期 大谷 秀二(東京)、29期 松本 宏(神戸)
ヘンロ道をヘンコが往く
私は人の言うことに素直にうなずけない。形式的なこと、儀式的なことが大嫌いな偏固である。そのヘンコが遍路道を歩くことになった。遍路とは空海=弘法大師が修行で歩んだ道を辿り八十八ヶ所の霊場で納経する修行を指し、すべてを廻りきると結願となる。何を思ったのか女房が友人と遍路をすると言い出した。ツアー利用を考えていたようだがあいにく友人とのスケジュールが合わず、一度に全てを廻る通し打ちの歩き遍路を一人ですることを選んだ。何回かに分けて巡るのを区切り打ちという。
しかし、資料をみているうちに不安になったのか、自身の誕生日に「これが私への最高のプレゼント」と言ってヘンコ用のザックを買ってきた。半ば強制的につきあいを求められたことになる。彼女一人では道に迷うことは十分予想でき、宿の予定をフォローしなければ不安がある。50日余りの独身生活を密かに楽しみにしていた心優しいヘンコはサポート役として渋々遍路道を歩くことにした。ほとんどの民宿が営業を始める3月まで出発はできない。となるとヘンコは都合で3週間だけしか同行できない。出発までの10日間は10kgの荷を背負い20km以上を歩く足慣らしなどをして慌ただしく備えた。
礼拝の作法や儀式的なミサが腑に落ちず高三まで公教要理を受けたにも関わらず受洗しなかったヘンコは、遍路道を辿る歩きが修行そのものと解釈しているので全ての札所には行くものの作法通りのお参りはしなかった。
各霊場でお遍路が行う納経とは、山門への入り方からはじまり、手水場、鐘楼、本堂でのローソク・線香の立て方、本堂、大師堂に参り、そこでおおよそ決められた手順に従って読経し、その証として納札(おさめふだ)を納めてから納経所で納経帳に墨書・朱印をいただく一連の所作を指す。かつては木製や金属製の納札を山門や本堂の柱などに釘で打ちつけていたことから、遍路自体や、札所に参拝することを「打つ」という。遍路装束は白が基本とされ、「南無大師遍照金剛」と背に書かれた白衣を着用し仏に帰依する意味で身につける輪袈裟を首にかけて最必須アイテムである弘法大師の化身とされる金剛杖と数珠を持ってお参りするのが一般的なスタイルだ。天の邪鬼なヘンコはそこからできるだけ離れた恰好をと考え、軽登山の服装・装備で出発した。金剛杖は弘法大師の化身なので扱いにいろいろ決まりがある。しかし、その扱いを守っている人は少ない。「作法が守れないなら金剛杖や数珠などを持たない自分流の方が良いですよ」と7回お遍路をした僧籍を持つ人から後々伺った。
歩き遍路はハッキリした数字は不明だが一日平均10人前後といわれている。現在のお遍路はほとんどが車利用かツアーでのバス利用である。歩き遍路で結願するとどうもやみつきになるようで、その半数以上は2回目・3回目以上のリピーターだ。少人数なので途中で抜きつ抜かれつするものの出会うのはほとんど同じ人。先輩達の話は初心者の我々にとって貴重な参考となった。お寺で出会うお遍路は私を除くとほぼ全員が金剛杖を持ち菅笠を被り白装束だ。車、バス利用の方のほとんどはシャツやズボンも白で作務衣のような白衣に靴まで白い完璧な装束だが、歩き遍路はチョッキタイプの白衣が多くトレッキングパンツにザックを背負って、ウォーキング・シューズを履いているのですぐ見分けがつく。しかし参拝作法は変わらない。
何一つお遍路らしい装備をしていなかったヘンコも日焼け、雨対策として途中で菅笠を購入した。その効果は大であった。おまけに菅笠を被ってからお接待を受ける場面が増えたように感じたのは気のせいか。
遍路道についてはいくつかの団体からガイドブックや地図が発売されている。事前に購入した地図は遍路用品の販売所でも売られており、他の歩き遍路の方も持っておられたので定番なのだろう。休憩所、宿、トイレなどの情報が記入されていて重宝した。各頁ごとに編集されている地図は、遍路道の進行方向が右から左、あるいは上から下へとなるように描いており必ずしも北が上になっていないのと縮尺もまちまちで慣れないと勘違いしやすいのが難点だった。
当然のことながらマラソンコースのようには道路にラインが引かれていないので迷ったと言う人が多い。各団体の手によって分岐点の前後には遍路道の表示や進行方向を示す小さな矢印などがガードレールや電柱に貼られていた。しかし疲れてくると見落とすこともある。何人かで歩いていると間違いに気づきやすいがほとんどの人が一人歩きなので誤りを犯しやすい。
通常一日30kmくらい、健脚で40kmほど歩くらしいので、私たちも当初30kmで予定を立てたが、休息日なしで連日30kmはきついので20kmを目処に変更した。それくらいが無理をせず最後まで続けるコツだとおっしゃっていた遍路3回目の先輩とは数日間同じ行程だった。それでも宿の都合で30kmほど歩いた日も多かった。無理がたたり途中で自宅へ戻らざるを得なかった方もいた。
遍路道は旧往来・街道なので新しく造られた国道、県道などから外れていることが多々ある。集落などでは生活道路、路地といったところも通るし、田畑の中のあぜ道のようなところもある。この様なところは歩くのが楽しい。しかしほとんどが国道、県道のような車の往来があるところで、しかも歩道のない道も多い。山の上にあるお寺もあり未舗装の山道を通ることもあるが、全行程の8割ないし9割以上は舗装された道路だ。
道中癒やしてくれたのは花だった。梅、桃、少し早いが山桜、里にはすでに満開近い桜など。菜の花、レンゲも目にした。花ではないが徳島県勝浦町生比奈地区では家々の軒先にお雛様を飾り目を楽しませてくれた。何台ものバンの荷台に雛壇を飾っている自動車販売店もあった。
お遍路道は限界集落をたくさん通る。特に林業の盛んだった山の中腹や麓には人気のない人家が多く、廃校跡もたくさんあった。山だけでなく海辺の集落も同じような状況だ。
3日目には早くも最初の試練「へんろころがし」と呼ばれる遍路道の最初で最大の難所を通ることに。距離は13kmほどだが標高700mの寺へ行くのに一旦750mまで登り、400mまで下りたあと2.5kmで残り300mを再び登らなければならない。7日目は、前日に30kmほど歩き少々疲れたところで500mの山を二つ越えて再び1日で1000m登る経験をした。また登るのが分かっているので「無駄な下り坂は要らん! 橋を架けてほしい」と思った。
山道で苦しめられたあと、これから数日は国道とはいえ平坦な道を歩けるものとホッとしていたら、8日目は全国各地で春一番が吹いた荒れ模様の天気。四国を低気圧が通過し、午後には通り過ぎるとの予報に同宿の人たちと遅めに宿を出て雨が上がった後の行程を増やそうと目論んでいた。しかし民宿の女将さんにチェックアウトは9時、連泊はダメと言われ全員渋々台風並みの土砂降りの中を出発した。何でこんな日に歩かなアカンねんとぼやきながら歩いているとき、教室の窓から「お遍路さん頑張って?!」と小学生達に声をかけられ、嬉しくなって歩みに弾みがついた。
常識的にはこのような予報の日は翌日に延期するものだが、民宿の場合は兼業が多く昼間は宿に置いてくれないし、数日先まで済ませている宿泊予約を全て変更しなければならないのでそうはゆかない。結果は靴の中はもちろんレインコートの中まで雨が染み込み全身ずぶ濡れになって宿に着いた。ザックはレインカバーをつけていたにもかかわらず背中側から雨が染み込み、中身は全て濡れていて、この日の部屋は満艦飾となった。それでも昨日のふた山越えを晴天の中で済ませた我々はまだラッキーだと同宿者となぐさめあった。
この辺りまではほとんどの人が同じ行程で来ており、顔なじみとなった人が多かった。宿では情報交換したり談笑したりするが、日本人故なのかお互い名前を名乗らず、出身地などで区別して会話をする。ここから室戸岬までは札所はなく海沿いの国道が80kmほど続く。宿は少なく食堂はもちろんコンビニも自販機もほとんどないので無補給道路と呼ばれている。個々で行程が違うので顔なじみとなった方々とはここでお別れとなる。
お遍路は札所を巡拝するだけでなく宿を結ぶ道中でもある。民宿が主でお寺には宿坊、都会に近いところでは旅館、ホテルの選択もできる。二食付き6,500円から7,000円ほどの料金で設備や食事内容もほとんど変わらない。あるホテルではお遍路割引をしてくれたが高めだった。しかし寝起きの楽なベッドは魅力だ。ところによっては私たち一組だけという民宿もあったりで、一日に数人だけを泊める民宿が存在するだけでも有難い。民宿はたいてい予備の宿泊スペースがあり、歩けるところまで歩き行き当たりばったりで泊まることもできる。ただし相部屋で食事がないのを覚悟しなければならない。また、宿坊といっても旅館並みの床の間つきの部屋であったり、食事を部屋でいただけるところもある。洗濯機、乾燥機は有料・無料の別はあってもほとんどのところが備えている。私たちのように3時頃までに着けば順番待ちすることなく使用できる。中には洗濯をしてくれる宿もある。タオル、浴衣も用意されているので宿の中では素っ裸に浴衣一枚で過ごすつもりなら着替えは必要ない。ただ靴下は予備を持っている方が安心だ。汗をかき湿った靴下だとマメができやすい。用心深い人は1時間ごとに靴下を替えザックの後ろにぶら下げて乾かしながら歩く。私がマメに悩まされなかったのは山道具屋のすすめで靴の中敷きを堅いものにしたお陰ではないかと思っている。もうひとつテーピングテープもマメ対策に有効だった。
予約した宿では夕食、朝食をお腹いっぱい摂ることができる。前述の無補給道路以外でも食事のできるところはほとんどないので、宿によってはおむすびをお接待として無料で持たせてくれる。有料で用意してくれるところもある。幹線道路を外れたコースではコンビニもない。
ガイドブック等で装備の指導もしているが実際には多すぎる。ガイドブックを参考に準備した私たちは途中でかなりの荷物を神戸に返送した。すると準備した荷物にあわせて購入したザックそのものが重く感じられるようになった。
お接待という文化が定着している。地元団体等の好意で屋根付きでベンチを備えた遍路小屋が整備されている。しかしほとんどはトイレがない。数は少ないが個人や企業が休憩所としてベンチやトイレを用意してくれていることもある。トイレは利用できそうなところで早めに済ませることが肝要だ。
道中でお茶や水をふるまわれたり、3月だとポンカン、八朔、みかんなどをお接待として頂くことが度々あった。わざわざ車を停めてお接待をしてくれる方もいたり、「ちょっと待っとき」と言われて足を止めていると10個ほどの八朔を渡されたりする。重たいのになぁと思ってもお接待は断れないので・・・。あるときは車からオバちゃんが降りてきてバナナ4本のお接待。荷物にならないよう歩きながらお腹に入れ終わった頃、追いかけてきてバナナの皮を回収してくれ、次はポンカンと八朔各2個に加えてゴミ入れにするようにとビニール袋を、そしてミカンの皮むき器までくださった。そのあとまた追いかけてきてさっきのポンカンで手が汚れただろうとティッシュをいただいた。親切に感謝しながら大分歩いた頃遙か先からUターンしてきて目の前に止まり最終札所の近くにある遍路センターで完歩証明をしてくれるとアドバイス。これはオセッタイよりオセッカイに限りなく近いと思っていたら、ご自分でもお節介を自覚されていたようだった。ちなみにこのお接待と次の植物園は菅笠を被るようになってからだ。
高知市内の山にある竹林寺への遍路道は牧野植物園の裏から登り園内を巡って南門から出るようになっている。日本の植物分類学の父牧野富太郎博士が「植物園を造るならここがええ」と生前おっしゃっていたので、業績を顕彰するため、没後この地を選び造られた県立植物園は充実している。遍路道を歩いてくると入場料720円が無料で堪能できるのもお接待といえよう。
札所の1番は徳島県から始まり高知県、愛媛県、香川県と巡るのが順序となっている。しかしどこから始めてどこで区切っても構わないし、逆に廻るのは御利益が3倍あるともいわれている。しかし逆順は目印がないので間違いやすいだろう。
予定の3週間を高知県四万十町で迎えたヘンコは37番岩本寺で区切り神戸に帰ってきた。距離にして全体の三分の一ほどの400kmを歩いたことになる。そして暑さに弱い女房も4月になると辛くなるので一緒に戻ってきた。ということは秋か来年の3月涼しいうちに続きをやるつもりのようだ。御利益は分からないが目に見える効果として体重は3kg減の65kg、体脂肪率は5ポイント減の16.5%になった。女房については体脂肪がぐんと減った。頑丈そうなトレッキングシューズのかかともすり減った。底の貼り替えは買うほどかかるので財布の中身もついでに減った。
わずか三分の一を歩いただけでこんな駄文を書けるほどの思いがけない体験をさせてくれた女房に感謝している。
追記:さらに歩けばもっといろいろ体験させてもらえそうですが、続編を書く機会が訪れなければいいのにと今は密かに願っていますので、四国一周を終えていないこの段階で寄稿いたしました。