ロサンゼルス忘年会

開催日:2014年12月28日
場所:Sea Empress Seafood Restaurant(ガーデナ市、カリフォルニア)
参加者:左から順番に(敬称略させていただきます。)
10期 植村信也
10期 五明洋
29期 岡田健一
15期 藤野秀樹
8期 茨城述雄
42期 森下秀明

ロサンゼルス伯友会

南カリフォルニアに在住する卒業生が、交流を深めました。集ったのは、ガーデナという多くの日本人がガーデナ(庭師)として移民した町です。日本人は手先が器用だということで、庭師が向いていたのかもしれません。

今回集ったのは、アメリカに長期在住の卒業生でした。まずは、茨城先輩の乾杯で始まり、それと同時にウエイトレスが、注文もしていない飲茶まで、どんどん食事を運んで来ました。

六甲の卒業生が集ったときにいつも思うのは、皆しっかり食べると言うことです。やはり、中高生の時に体を鍛えているので、年齢を重ねても健康なのかもしれません。殆どを平らげてしまいました。

岡田さんが、昔の六甲の冊子を持ってこられ皆で懐かしく見ました。

今回から、海外の支部が活動を報告すると、「伯友」を送っていただけるという最初のケースで、全員に「伯友65号」が配られました。住所が日本にないために受け取れない方もおられたので、大変好評でした。

また、伯友への寄稿を呼びかけた所、五明さんが寄稿を約束して下さいました。66号に掲載されているのではと思います。

六甲の話では、学校名が今後どうなるのか、分校になった場合、卒業生の会はどうなるのかの話になりました。

カリフォルニアには、アメリカ生活が長い、経験豊かな卒業生がたくさんいます。留学、駐在、旅行でアメリカに来られる際は、是非お知らせください。歓迎会をさせていただきます。

連絡先: morishita@mmsystems.com 森下

よろしくお願いいたします。

森下秀明 記

17期忘年会

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12月11日木曜日に、恵比寿の「春秋ユラリ」で、恒例の年末同窓会を開催しました。
参加者は下記の15名(敬称略)です。
昨年に引き続き関西から小島君が駆けつけてくれました。
久しぶりに、河西君が元気な姿をみせてくれました。
午後6時からワイワイガヤガヤと楽しい時間が過ぎて9時前に散会しました。

(久保田記)

参加者名:
内田、小坂田、米村、横田、田邊、及川、西澤、前田、徳大寺、小林、成宮、河西、小島(関西)、藤田、久保田の15名

第22回JJHAF杯報告

第22回JJHAF杯は、11月23日(日)初の九州大会が開催され、神戸より選手12名+世話役の湯川総監督の総勢13名で敵地に乗り込みました。
第1試合 福岡上智 2:0 栄光
第2試合 六甲 2:0 広島
で優勝戦は福岡上智:六甲の対戦となりました。

今年は遠方な為に参加人数が少なく、交代メンバーが1人という不安要素の多い試合予想でしたが、いざ蓋を開けてみると、40歳代、阿部、間中、本多、佐藤、御厨の中年チーム5名がディフェンス・ラインをガッチリと固め、58期の国歳がキャプテン御厨と絶妙のコンビで守備を安定させながら前線に有効なキラーパスを供給し、泥、安田のベテランが体を張ってボールを取り、58、9期の中世古、山崎が得点を重ねるという理想的な試合運びとなりました。

特筆すべきは、上記10名の「つわもの達」に臆することなく参加した2名の現役大学生が活躍し、久後が前線で試合を上手くコントロールし、そして一見中学生に間違えそうな童顔のキーパー村上がファインセーブを連発して、全試合を失点0で切り抜ける事が出来ました。

23期から69期まで幅広い年齢構成の今年のチームでしたが、六蹴会のサポートにより本当に近年に無い素晴らしい遠征試合が出来た事をメンバー全員が胸を張ってご報告致します。

来年は神戸での開催となりますので 皆様方のご協力をお願いします。

最後に、福岡上智OB会へのエールを添付しておきます。

総監督:湯川 昌明

8期同期会

開催日:
2014年11月22日(土)
場所:
ニューミュンヘン神戸大使館
参加者:
稲森・上橋・奥・小倉・岡田(二)・尾上・白石・空岡・高橋・長森・馬場・藤原

8期

今年の会場はニューミュンヘンの神戸大使館。8階建て430席,地下で地ビールを醸造する巨大なビヤホールである。今年会場をここにしたのは「エレベーターがある」・・・からである。歩行不自由者には階段の利用は無理という昨年の提言に応えて、今年は「エレベーターがある」が、会場探しの必須条件になった経緯がある。

正午12時に開会、馬場信次君が3年ぶりに会を仕切る。長い闘病生活を感じさせない元気さである。出席者は12名。出席を決めながら,直前の不調による欠席が3名出たのは残念だ。山田康之君と鈴木英夫君それに大村眞司君である。一方久方ぶりの顔もあった。上橋正直君と稲森次郎君の二人、両君共に約十年ぶりである。二人とも奈良県からの遠距離出席、大変ではあろうがこれを機に是非出席を続けてもらいたい。

欠席者の近況報告によると,今尚仕事を持っている人がいる。事業や家業または奉仕活動などなど、それぞれ取り組んでいることがあるので欠席すると書かれている。一例を披露すると、ある私立女子大の剣道部の師範をしているという人がいる。詳細は分からぬが剣道部の師範となれば、相当の体力がなければ勤まるものではないだろう。是非一度クラス会に来て、その活動ぶりを聞かせて頂きたいものである。

名カメラマン鈴木君の欠席で、今年は馬場君と小倉君のカメラで集合写真を撮る。シャッターを押すのはフロアー係りの女店員。ニコニコと愛想よく「ハイチーズ」を繰り返しながら、大型小型二種類のカメラを手際よく操る。

二時半になって解散。今年も皆んなが笑顔で過ごしたクラス会は無事終了である。帰途一緒になった尾上芳郎君が杖をついている。今まで彼は元気組の一人。驚いて尋ねると急に転倒して足を痛め、今は杖がなければ歩き辛いと言う。やはり今年は「エレベーターがある」に拘って良かったのだと思った。

(奥 昭 徳 記)

ヘンロ道をヘンコが往く

菅笠を被り遍路姿に一歩近づいた

私は人の言うことに素直にうなずけない。形式的なこと、儀式的なことが大嫌いな偏固である。そのヘンコが遍路道を歩くことになった。遍路とは空海=弘法大師が修行で歩んだ道を辿り八十八ヶ所の霊場で納経する修行を指し、すべてを廻りきると結願となる。何を思ったのか女房が友人と遍路をすると言い出した。ツアー利用を考えていたようだがあいにく友人とのスケジュールが合わず、一度に全てを廻る通し打ちの歩き遍路を一人ですることを選んだ。何回かに分けて巡るのを区切り打ちという。

しかし、資料をみているうちに不安になったのか、自身の誕生日に「これが私への最高のプレゼント」と言ってヘンコ用のザックを買ってきた。半ば強制的につきあいを求められたことになる。彼女一人では道に迷うことは十分予想でき、宿の予定をフォローしなければ不安がある。50日余りの独身生活を密かに楽しみにしていた心優しいヘンコはサポート役として渋々遍路道を歩くことにした。ほとんどの民宿が営業を始める3月まで出発はできない。となるとヘンコは都合で3週間だけしか同行できない。出発までの10日間は10kgの荷を背負い20km以上を歩く足慣らしなどをして慌ただしく備えた。

礼拝の作法や儀式的なミサが腑に落ちず高三まで公教要理を受けたにも関わらず受洗しなかったヘンコは、遍路道を辿る歩きが修行そのものと解釈しているので全ての札所には行くものの作法通りのお参りはしなかった。

各霊場でお遍路が行う納経とは、山門への入り方からはじまり、手水場、鐘楼、本堂でのローソク・線香の立て方、本堂、大師堂に参り、そこでおおよそ決められた手順に従って読経し、その証として納札(おさめふだ)を納めてから納経所で納経帳に墨書・朱印をいただく一連の所作を指す。かつては木製や金属製の納札を山門や本堂の柱などに釘で打ちつけていたことから、遍路自体や、札所に参拝することを「打つ」という。遍路装束は白が基本とされ、「南無大師遍照金剛」と背に書かれた白衣を着用し仏に帰依する意味で身につける輪袈裟を首にかけて最必須アイテムである弘法大師の化身とされる金剛杖と数珠を持ってお参りするのが一般的なスタイルだ。天の邪鬼なヘンコはそこからできるだけ離れた恰好をと考え、軽登山の服装・装備で出発した。金剛杖は弘法大師の化身なので扱いにいろいろ決まりがある。しかし、その扱いを守っている人は少ない。「作法が守れないなら金剛杖や数珠などを持たない自分流の方が良いですよ」と7回お遍路をした僧籍を持つ人から後々伺った。

歩き遍路はハッキリした数字は不明だが一日平均10人前後といわれている。現在のお遍路はほとんどが車利用かツアーでのバス利用である。歩き遍路で結願するとどうもやみつきになるようで、その半数以上は2回目・3回目以上のリピーターだ。少人数なので途中で抜きつ抜かれつするものの出会うのはほとんど同じ人。先輩達の話は初心者の我々にとって貴重な参考となった。お寺で出会うお遍路は私を除くとほぼ全員が金剛杖を持ち菅笠を被り白装束だ。車、バス利用の方のほとんどはシャツやズボンも白で作務衣のような白衣に靴まで白い完璧な装束だが、歩き遍路はチョッキタイプの白衣が多くトレッキングパンツにザックを背負って、ウォーキング・シューズを履いているのですぐ見分けがつく。しかし参拝作法は変わらない。

何一つお遍路らしい装備をしていなかったヘンコも日焼け、雨対策として途中で菅笠を購入した。その効果は大であった。おまけに菅笠を被ってからお接待を受ける場面が増えたように感じたのは気のせいか。

遍路道についてはいくつかの団体からガイドブックや地図が発売されている。事前に購入した地図は遍路用品の販売所でも売られており、他の歩き遍路の方も持っておられたので定番なのだろう。休憩所、宿、トイレなどの情報が記入されていて重宝した。各頁ごとに編集されている地図は、遍路道の進行方向が右から左、あるいは上から下へとなるように描いており必ずしも北が上になっていないのと縮尺もまちまちで慣れないと勘違いしやすいのが難点だった。

当然のことながらマラソンコースのようには道路にラインが引かれていないので迷ったと言う人が多い。各団体の手によって分岐点の前後には遍路道の表示や進行方向を示す小さな矢印などがガードレールや電柱に貼られていた。しかし疲れてくると見落とすこともある。何人かで歩いていると間違いに気づきやすいがほとんどの人が一人歩きなので誤りを犯しやすい。

通常一日30kmくらい、健脚で40kmほど歩くらしいので、私たちも当初30kmで予定を立てたが、休息日なしで連日30kmはきついので20kmを目処に変更した。それくらいが無理をせず最後まで続けるコツだとおっしゃっていた遍路3回目の先輩とは数日間同じ行程だった。それでも宿の都合で30kmほど歩いた日も多かった。無理がたたり途中で自宅へ戻らざるを得なかった方もいた。

遍路道は旧往来・街道なので新しく造られた国道、県道などから外れていることが多々ある。集落などでは生活道路、路地といったところも通るし、田畑の中のあぜ道のようなところもある。この様なところは歩くのが楽しい。しかしほとんどが国道、県道のような車の往来があるところで、しかも歩道のない道も多い。山の上にあるお寺もあり未舗装の山道を通ることもあるが、全行程の8割ないし9割以上は舗装された道路だ。
道中癒やしてくれたのは花だった。梅、桃、少し早いが山桜、里にはすでに満開近い桜など。菜の花、レンゲも目にした。花ではないが徳島県勝浦町生比奈地区では家々の軒先にお雛様を飾り目を楽しませてくれた。何台ものバンの荷台に雛壇を飾っている自動車販売店もあった。

お遍路道は限界集落をたくさん通る。特に林業の盛んだった山の中腹や麓には人気のない人家が多く、廃校跡もたくさんあった。山だけでなく海辺の集落も同じような状況だ。

3日目には早くも最初の試練「へんろころがし」と呼ばれる遍路道の最初で最大の難所を通ることに。距離は13kmほどだが標高700mの寺へ行くのに一旦750mまで登り、400mまで下りたあと2.5kmで残り300mを再び登らなければならない。7日目は、前日に30kmほど歩き少々疲れたところで500mの山を二つ越えて再び1日で1000m登る経験をした。また登るのが分かっているので「無駄な下り坂は要らん! 橋を架けてほしい」と思った。

山道で苦しめられたあと、これから数日は国道とはいえ平坦な道を歩けるものとホッとしていたら、8日目は全国各地で春一番が吹いた荒れ模様の天気。四国を低気圧が通過し、午後には通り過ぎるとの予報に同宿の人たちと遅めに宿を出て雨が上がった後の行程を増やそうと目論んでいた。しかし民宿の女将さんにチェックアウトは9時、連泊はダメと言われ全員渋々台風並みの土砂降りの中を出発した。何でこんな日に歩かなアカンねんとぼやきながら歩いているとき、教室の窓から「お遍路さん頑張って?!」と小学生達に声をかけられ、嬉しくなって歩みに弾みがついた。

常識的にはこのような予報の日は翌日に延期するものだが、民宿の場合は兼業が多く昼間は宿に置いてくれないし、数日先まで済ませている宿泊予約を全て変更しなければならないのでそうはゆかない。結果は靴の中はもちろんレインコートの中まで雨が染み込み全身ずぶ濡れになって宿に着いた。ザックはレインカバーをつけていたにもかかわらず背中側から雨が染み込み、中身は全て濡れていて、この日の部屋は満艦飾となった。それでも昨日のふた山越えを晴天の中で済ませた我々はまだラッキーだと同宿者となぐさめあった。

この辺りまではほとんどの人が同じ行程で来ており、顔なじみとなった人が多かった。宿では情報交換したり談笑したりするが、日本人故なのかお互い名前を名乗らず、出身地などで区別して会話をする。ここから室戸岬までは札所はなく海沿いの国道が80kmほど続く。宿は少なく食堂はもちろんコンビニも自販機もほとんどないので無補給道路と呼ばれている。個々で行程が違うので顔なじみとなった方々とはここでお別れとなる。

お遍路は札所を巡拝するだけでなく宿を結ぶ道中でもある。民宿が主でお寺には宿坊、都会に近いところでは旅館、ホテルの選択もできる。二食付き6,500円から7,000円ほどの料金で設備や食事内容もほとんど変わらない。あるホテルではお遍路割引をしてくれたが高めだった。しかし寝起きの楽なベッドは魅力だ。ところによっては私たち一組だけという民宿もあったりで、一日に数人だけを泊める民宿が存在するだけでも有難い。民宿はたいてい予備の宿泊スペースがあり、歩けるところまで歩き行き当たりばったりで泊まることもできる。ただし相部屋で食事がないのを覚悟しなければならない。また、宿坊といっても旅館並みの床の間つきの部屋であったり、食事を部屋でいただけるところもある。洗濯機、乾燥機は有料・無料の別はあってもほとんどのところが備えている。私たちのように3時頃までに着けば順番待ちすることなく使用できる。中には洗濯をしてくれる宿もある。タオル、浴衣も用意されているので宿の中では素っ裸に浴衣一枚で過ごすつもりなら着替えは必要ない。ただ靴下は予備を持っている方が安心だ。汗をかき湿った靴下だとマメができやすい。用心深い人は1時間ごとに靴下を替えザックの後ろにぶら下げて乾かしながら歩く。私がマメに悩まされなかったのは山道具屋のすすめで靴の中敷きを堅いものにしたお陰ではないかと思っている。もうひとつテーピングテープもマメ対策に有効だった。

予約した宿では夕食、朝食をお腹いっぱい摂ることができる。前述の無補給道路以外でも食事のできるところはほとんどないので、宿によってはおむすびをお接待として無料で持たせてくれる。有料で用意してくれるところもある。幹線道路を外れたコースではコンビニもない。
ガイドブック等で装備の指導もしているが実際には多すぎる。ガイドブックを参考に準備した私たちは途中でかなりの荷物を神戸に返送した。すると準備した荷物にあわせて購入したザックそのものが重く感じられるようになった。

お接待という文化が定着している。地元団体等の好意で屋根付きでベンチを備えた遍路小屋が整備されている。しかしほとんどはトイレがない。数は少ないが個人や企業が休憩所としてベンチやトイレを用意してくれていることもある。トイレは利用できそうなところで早めに済ませることが肝要だ。

道中でお茶や水をふるまわれたり、3月だとポンカン、八朔、みかんなどをお接待として頂くことが度々あった。わざわざ車を停めてお接待をしてくれる方もいたり、「ちょっと待っとき」と言われて足を止めていると10個ほどの八朔を渡されたりする。重たいのになぁと思ってもお接待は断れないので・・・。あるときは車からオバちゃんが降りてきてバナナ4本のお接待。荷物にならないよう歩きながらお腹に入れ終わった頃、追いかけてきてバナナの皮を回収してくれ、次はポンカンと八朔各2個に加えてゴミ入れにするようにとビニール袋を、そしてミカンの皮むき器までくださった。そのあとまた追いかけてきてさっきのポンカンで手が汚れただろうとティッシュをいただいた。親切に感謝しながら大分歩いた頃遙か先からUターンしてきて目の前に止まり最終札所の近くにある遍路センターで完歩証明をしてくれるとアドバイス。これはオセッタイよりオセッカイに限りなく近いと思っていたら、ご自分でもお節介を自覚されていたようだった。ちなみにこのお接待と次の植物園は菅笠を被るようになってからだ。

高知市内の山にある竹林寺への遍路道は牧野植物園の裏から登り園内を巡って南門から出るようになっている。日本の植物分類学の父牧野富太郎博士が「植物園を造るならここがええ」と生前おっしゃっていたので、業績を顕彰するため、没後この地を選び造られた県立植物園は充実している。遍路道を歩いてくると入場料720円が無料で堪能できるのもお接待といえよう。

札所の1番は徳島県から始まり高知県、愛媛県、香川県と巡るのが順序となっている。しかしどこから始めてどこで区切っても構わないし、逆に廻るのは御利益が3倍あるともいわれている。しかし逆順は目印がないので間違いやすいだろう。

予定の3週間を高知県四万十町で迎えたヘンコは37番岩本寺で区切り神戸に帰ってきた。距離にして全体の三分の一ほどの400kmを歩いたことになる。そして暑さに弱い女房も4月になると辛くなるので一緒に戻ってきた。ということは秋か来年の3月涼しいうちに続きをやるつもりのようだ。御利益は分からないが目に見える効果として体重は3kg減の65kg、体脂肪率は5ポイント減の16.5%になった。女房については体脂肪がぐんと減った。頑丈そうなトレッキングシューズのかかともすり減った。底の貼り替えは買うほどかかるので財布の中身もついでに減った。

わずか三分の一を歩いただけでこんな駄文を書けるほどの思いがけない体験をさせてくれた女房に感謝している。

追記:さらに歩けばもっといろいろ体験させてもらえそうですが、続編を書く機会が訪れなければいいのにと今は密かに願っていますので、四国一周を終えていないこの段階で寄稿いたしました。

むとせ会古希の集い

古希の集い集合

2014年11月16日、新神戸のANAクラウンプラザホテル神戸に49名が集結した。

2014年は古稀にあたり、久々の同期会である。正式な同窓会として前回は還暦の2004年に淡路島の一泊で開催したが、T君の葬儀に集まった有志からプレ古稀の提案があり、昨年関東と関西の中間ということで浜名湖の舘山寺温泉に集まった。しかし平日実施に現役からの不平が出、また浜松停車の新幹線が少ないことにも愚痴が出た。何歳になってもうるさいことである。

今回は幹事が知恵をしぼり新神戸駅直結のホテルで、午後1時から3時間の飲み放題で、しかも各人の挨拶はなしで、ひたすら旧交を温めることに専心するという、心のこもった企画であった。開宴前にホテルの写真室で記念写真の撮影があり、「カメラはキヤノン」を再認識した。

開会のあいさつの後、52年ぶりの再会もあり、またあちこちで「あそこにいるのは誰や」との声が聞かれたが、時間の経過と共にその顔が昔のそれに戻っていくマジックが随所に見られた。

三時間も間が持つのかとの不安をよそに、和やかに会は進行し、あっという間に四時を迎えた。またこの一年に3名が平均余命を全うできず鬼籍に入った旨の報告があった。

この年になると話題の中心は健康のことになり、「次回はいつだ」という不安の声も聞こえた。そのままおとなしく帰る奇特な人もいたようだが、多くは部活の仲間同士など、いくつかのグループに分かれて二次会となったが、さらにそのいくつかのグループがトーアロードの「がんこ」に集まり、一層の旧交を深め合った。その後有志数名が元町に繰り出し、大いに昔を懐かしみ大団円を迎えた。

(辻 定彦 記)

関東地区31期同期会

開催日
2014年11月15日
場所
パレスホテル東京「グランドキッチン」

11月15日(土)、パレスホテル東京内のレストラン/グランドキッチンにて、約1年ぶりに関東地区31期同期会を開きました。

会にはブランガン先生、はるばる山口から栗田先生、名誉会員の大渕緑さんにも参加をしていただき、総勢20名のにぎやかな会になりました。ビュッフェスタイルの立食パーティー形式でしたが、それぞれの料理はどれもとても美味しく、またドリンク類も充実しており、大満足の内容でした。
さて、我々31期も還暦まであと1年となり、皆それぞれに還暦以降の人生計画を立てつつある事を話しながら、それぞれが元気に過ごしている事を喜び合って、3時間あまりの時間を楽しく過ごしました。

ブランガン先生は昨年同様とてもお元気で、先生の張りのある声を聞くと中1の授業中に戻ったような気になります。また栗田先生も益々お元気で、校長として御勤務される山口県ザビエル高等学校の目覚しい躍進ぶりには、参加者全員驚きです! TV山口の取材では、藤原紀香似の女子アナから「自分の娘が入学するまで、待っていて下さい!」と言うラブメッセージをいただいたそうです。

会の後半には、それぞれの近況などをひとりひとり報告しあい、来年の同期会での再会を楽しみにしながら散会となりました。来年の関東地区同期会の幹事は片桐、目代両氏にお願いし、相談役として大渕緑さんにも引き続きご援助をいただくことにしました。関西組の担当幹事の方と緊密な連携を取っていただき、また一段と楽しい同期会/還暦祝賀会が催されることを楽しみにしています。

(畑辺三千夫 記)

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前列:太田 栗田先生 中井 大渕 ブランガン先生 宮本 大竹 杉江 小野
後列:西川 上松 高木 目代 片桐 倉光 前田 坂本 奥西 江見 畑辺

第20回平成塾のご案内

お手元に届いた会誌「伯友」でもご案内しておりますが、来る11月14日(金)19:00より六甲学院生徒研修所におきまして慶応大学の渡辺教授(29期)をお招きし第20回平成塾を開催いたします。
渡邊さんは今回 六甲学院において開かれるOB課外講義のため来神されることになりましたので併せて平成塾でのご講演をお願いしました。
今話題のTPPのナマのお話を伺える機会ですのでどうぞご参加ください。
第20回平成塾のご案内
ご参加をご希望の方は事務局にメールでご連絡ください。

34期同期会

開催日:
2014年11月8日(土)
場所:
宝塚ホテル
参加者:
(来賓)飯塚先生、埜藤先生
(懇親会)伊井康高、井関泰文、江見丈、大畠康平、加藤賛、鴨志田泰、北川康作、鍬形安行、小林正彦、斉藤彰、佐々木裕、佐藤俊介、髙田明、田尻一裕、鶴田博己、中村俊一、西寿美男、西村達衛、野村(口野)正富、長谷部斎、原田英一、林(和田)豊、藤岡英明、森一郎、矢嶋悟、安田健治、山本慎一、安光立也
(2次会から)正伝二生

34期20141108
秋に同期会を開催するのも六甲学院創立75周年の年から数えて3回目となりました。50代半ばとなった同期28名が集まり、当時最若手の先生だった飯塚先生と埜藤先生をお招きし、まるで10代に戻ったようなひと時を過ごすことができました。
懇親会は、佐々木裕君の名司会により、校歌斉唱で始まりました。37年振りにみんなと顔を合わせた矢嶋悟君と森一郎君の卒業後から近況までの報告のあと、埜藤先生に乾杯のご発声と、某国関係の教科書に書かれていることに関する興味深いお話をうかがい、飯塚先生のご挨拶では、原発関連のお話をいただきました。英語や化学ではなく、まるで政治経済の授業を受けたような感じでした。

懇親会に先立って宝塚GCで行われたゴルフコンペは伊井康高君がニアピン4つを獲得して優勝、コメントでは、海外で「日本人でよかった。先人のお蔭で誇りを持って現地の方々と仕事ができる」との話がありました。佐藤俊介君による山岳部OBの今夏の立山登山の報告に続き、林豊から六甲学院の最近の状況についての報告をしました。各席にマイクを回して行った参加者全員の近況報告では、「六甲時代にもっと英語を勉強していたらよかった」との反省も多くあり、「この宝塚ホテルで結婚式を挙げました」といった話も何人かありました。最後に『六年の春秋』と『六甲学院讃歌』を懐かしく歌い、あっと言う間にお開きとなりました。
34期ゴルフ
西宮北口に場所を移した2次会にも、ほとんどのメンバーが参加し、2次会から正伝二生君が合流し、話し足りなかった話に終電まで花をさかせました。

今後も同期の懇親会やゴルフを予定しております。34期の皆さんのご参加をお待ちしております。

(林 豊 記)

3期会開催

期日
2014年10月27日
場所
燦(交通センタービル)

3期

毎年の事ながら開催日近くなると、本人の体調不良、また家族や孫の病気や怪我等々色々と故障発生し、今年も8名の集まりに留まりました。

少人数とはいえ三浦君は東京から、また坊野君は四日市からの来神にて1年間の苦労話や面白おかしい話に花が咲き、3時間の予定はアッと言う間に過ぎ去りました。飲み足りない人、話足りなかった人たちは席を改めて時の経つのを忘れたようです。

お互い90才がそこまで来ていますので、より慎重に過ごすことを誓い散会しました。

鈴木良憲 記